大いなる旅・しかもタダ
2006年8月16日
昨日の続きで・・・
あれから、本当に美術館に行ってきた。
どこで何をやっているのか全く下調べせずとりあえず街に出て、まずはブラブラとウィンドーショッピングなどしていたら大好物発見!
それは「ドネルケバブ」。トルコの食べ物で、ピタパンのようなもちもちした食感のある袋状のパンに、鶏肉や牛肉の薄切りとキャベツやトマトなどのたっぷりの野菜がギュギュッと詰め込まれている。店先で1つ下さいと言うと、棒に突き刺さった大きな肉の塊を薄く削ぎ取り他の野菜と一緒に手際よくパンに挟みソースをかけて渡してくれる。500円。見た目よりボリュームたっぷりで、食べ終わるとかなりの満腹感だった。
これ、初めて食べたのはタカと行ったお祭りに出ていた屋台だった。それ以来2人ともすっかり気に入ってしまい、また食べたくてケバブ屋を探したけれどこれが意外と地元には無いのだ。トルコ料理屋はあるのだけれど、そこで出るケバブは具とパンが別々になっていたり味が微妙に違ったりして屋台の美味しさじゃない。
だけどここのは、まさに屋台の味だった!タカにも食べさせてあげたかったなぁ。仕方ないから写メールだけ送ってあげたら案の定、すごく羨ましがっていた・・・フフ。
ああそうそう、美術館へ行くんだった。
たらたらと坂を登っていくと、案内板に「ルーブル美術館展」とあった。おおルーブルか、現地まで見に行く予定も当分無いしここはひとつ見ておかねばと思い行ってみる。
すると案の定・・・大混雑。
そりゃそうだよね、天下のルーブルに加えてお盆真っ只中。狭い敷地内にぎゅうぎゅう詰めで並ばされている人たちの長い列。一瞬ひるみ、けれど時間はたっぷりあるから並ぼうと奮起したものの、3秒後にはもう戦意消失した。
さあてどうしようかな・・・と振り向くと、すぐ後ろの小さな講堂のような建物で「素描展」をやっていた。
素描か・・・・
どんなだろう。
とにかく熱かったこともあって、少し涼むつもりで入る。
ひと目見て古い歴史があるとわかるその建物の2階に上がると、吹き抜けの高い天井と真っ白な壁がそれだけで既に芸術を思わせるようなホールがあり、そこには藝大在籍中の21名の学生による素描が整然と展示されていた。
素描、デッサンなどに限らず、美術関係は見るのは好きでも専門的な知識や技術はまるで持ち合わせていない私は、新しい教科書を開く子供のような気持ちでゆっくりと丹念に、全員の作品を見て回った。
そこには、絵を描くことで自分の内側と外側の世界を探求している人たちの、リアルな息遣いがあった。ある一定の規則に従って壁に貼られた数枚の紙からも、机の上に無造作に置かれているスケッチブックからも、まるで本人が目の前に立って話をしているかのように生々しく「言葉」が伝わってくるのだ。
思いがけず受けたその力、というかエネルギー?の強さにびっくりした私。そして驚きはすぐに喜びに変わった。何も考えずに開いた教科書が、手に余るほどの知識の宝庫でワクワクしたような気分。
それにしても素描がこんなに美しいとは。
ある作者のコメントに、「素描する時はできるだけ何も考えず、頭を真っ白にしてただ対象を写し取るようにする。そのもののありのままの姿と、それを取り巻く空気をも一緒に描くように。」とあったけれど本当にそれがよく伝わってくる。まるで描いた本人になって、鳥や花やカニや貝殻や、裸婦や住んでいる部屋のキッチンやテレビを見ているような気分になる。
鉛筆1本で、あんなにも繊細な光の移り変わりを表現できるなんて。
髪の毛よりも細い線を、いくつも重ねたり繋げたりしてまるで写真のようにそこにあるものを紙の上に再現するなんて。
小学生の頃、写生大会で金賞をもらった時の記憶が甦ってくる。あの時、絵を描く技法なんて全然知らなかった私はそれでも確かに風景を切り取っていた。その時目に映るものだけを過不足なく自分の中に吸収して、それを指先の運動に換えて紙の上に再生していたのだと思う。
そう言えば数年前に、スケッチセットを持って上高地に行ったことがあった。その時に美しい風景を写生したのだけれど、あまりの下手さに驚いた。紙という限られたスペースの、この辺にあれをこう書いてなんて理屈っぽく考えた挙句、私の指は輝くばかりの自然の息吹に忠実に従うことができなかったのだ。ああ・・・汚れた大人になっちまったよ。
結局、1時間はたっぷり堪能して家に帰った。
無性に「何か描きたい」と思いながら。
画家の卵たちが見せてくれた、大いなる芸術の光。それは粉雪のようにキラキラ輝きながらあのホールに舞い続けていた。
それは私にとって
ルーブルより大きな感動を与えたと確信している。
あれから、本当に美術館に行ってきた。
どこで何をやっているのか全く下調べせずとりあえず街に出て、まずはブラブラとウィンドーショッピングなどしていたら大好物発見!
それは「ドネルケバブ」。トルコの食べ物で、ピタパンのようなもちもちした食感のある袋状のパンに、鶏肉や牛肉の薄切りとキャベツやトマトなどのたっぷりの野菜がギュギュッと詰め込まれている。店先で1つ下さいと言うと、棒に突き刺さった大きな肉の塊を薄く削ぎ取り他の野菜と一緒に手際よくパンに挟みソースをかけて渡してくれる。500円。見た目よりボリュームたっぷりで、食べ終わるとかなりの満腹感だった。
これ、初めて食べたのはタカと行ったお祭りに出ていた屋台だった。それ以来2人ともすっかり気に入ってしまい、また食べたくてケバブ屋を探したけれどこれが意外と地元には無いのだ。トルコ料理屋はあるのだけれど、そこで出るケバブは具とパンが別々になっていたり味が微妙に違ったりして屋台の美味しさじゃない。
だけどここのは、まさに屋台の味だった!タカにも食べさせてあげたかったなぁ。仕方ないから写メールだけ送ってあげたら案の定、すごく羨ましがっていた・・・フフ。
ああそうそう、美術館へ行くんだった。
たらたらと坂を登っていくと、案内板に「ルーブル美術館展」とあった。おおルーブルか、現地まで見に行く予定も当分無いしここはひとつ見ておかねばと思い行ってみる。
すると案の定・・・大混雑。
そりゃそうだよね、天下のルーブルに加えてお盆真っ只中。狭い敷地内にぎゅうぎゅう詰めで並ばされている人たちの長い列。一瞬ひるみ、けれど時間はたっぷりあるから並ぼうと奮起したものの、3秒後にはもう戦意消失した。
さあてどうしようかな・・・と振り向くと、すぐ後ろの小さな講堂のような建物で「素描展」をやっていた。
素描か・・・・
どんなだろう。
とにかく熱かったこともあって、少し涼むつもりで入る。
ひと目見て古い歴史があるとわかるその建物の2階に上がると、吹き抜けの高い天井と真っ白な壁がそれだけで既に芸術を思わせるようなホールがあり、そこには藝大在籍中の21名の学生による素描が整然と展示されていた。
素描、デッサンなどに限らず、美術関係は見るのは好きでも専門的な知識や技術はまるで持ち合わせていない私は、新しい教科書を開く子供のような気持ちでゆっくりと丹念に、全員の作品を見て回った。
そこには、絵を描くことで自分の内側と外側の世界を探求している人たちの、リアルな息遣いがあった。ある一定の規則に従って壁に貼られた数枚の紙からも、机の上に無造作に置かれているスケッチブックからも、まるで本人が目の前に立って話をしているかのように生々しく「言葉」が伝わってくるのだ。
思いがけず受けたその力、というかエネルギー?の強さにびっくりした私。そして驚きはすぐに喜びに変わった。何も考えずに開いた教科書が、手に余るほどの知識の宝庫でワクワクしたような気分。
それにしても素描がこんなに美しいとは。
ある作者のコメントに、「素描する時はできるだけ何も考えず、頭を真っ白にしてただ対象を写し取るようにする。そのもののありのままの姿と、それを取り巻く空気をも一緒に描くように。」とあったけれど本当にそれがよく伝わってくる。まるで描いた本人になって、鳥や花やカニや貝殻や、裸婦や住んでいる部屋のキッチンやテレビを見ているような気分になる。
鉛筆1本で、あんなにも繊細な光の移り変わりを表現できるなんて。
髪の毛よりも細い線を、いくつも重ねたり繋げたりしてまるで写真のようにそこにあるものを紙の上に再現するなんて。
小学生の頃、写生大会で金賞をもらった時の記憶が甦ってくる。あの時、絵を描く技法なんて全然知らなかった私はそれでも確かに風景を切り取っていた。その時目に映るものだけを過不足なく自分の中に吸収して、それを指先の運動に換えて紙の上に再生していたのだと思う。
そう言えば数年前に、スケッチセットを持って上高地に行ったことがあった。その時に美しい風景を写生したのだけれど、あまりの下手さに驚いた。紙という限られたスペースの、この辺にあれをこう書いてなんて理屈っぽく考えた挙句、私の指は輝くばかりの自然の息吹に忠実に従うことができなかったのだ。ああ・・・汚れた大人になっちまったよ。
結局、1時間はたっぷり堪能して家に帰った。
無性に「何か描きたい」と思いながら。
画家の卵たちが見せてくれた、大いなる芸術の光。それは粉雪のようにキラキラ輝きながらあのホールに舞い続けていた。
それは私にとって
ルーブルより大きな感動を与えたと確信している。
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